ホワイト社会

岡田斗司夫が提唱?しているホワイト社会。さすが「評価経済」の登場を見事に当てただけあって、今度もかなりいいところを突いてしまっている。
https://www.youtube.com/watch?v=k_zV08mCfFI

指摘されて気づいたけれど、「汚いものにこそ真実がある」というのは確かに昔は当たり前にあった価値観だし、自分の世代にはまだ残っている。

なるほど、大学教授とか知識人を見ていて、内容の賛否以前に汚い言葉遣いが気になって主張を聞く気にもならないことがあるのは、「汚い=真実」の塩梅の濃淡が、自分と違っているだけかも知れない。実際、そう考えてから苦手な教授の発言の中身にやっと共感できた。

逆に、今は「綺麗・汚い」の価値観よりも、思想(例えば右だとか左だとか)の違いの価値観を重んじるあまり多少言動が汚くても容認している人も、時代とともに汚いことのマイナス価値観の倍率が上がって、「思想以前に汚いのは無理」となってしまうのだろう。そうして、内容の如何に問わず、汚い人は消えてゆくというのが岡田斗司夫のいうホワイト革命なんだろう。

そう考えてみると、自分は、昔はいわゆる「リベラル」に近い考えだったけれど、SNSでリベラルの人たちがあまりに汚い言葉を吐きまくるのを見て、考え自体が変わってしまったのに気づいた。

ただ、大きな変化の中にいると自分の価値観の変化が追いつかないことや、逆に価値観変化が時として暴走することもあるのだろう。例えば過激ホワイト化というか、悪を探していっせいに叩く、という傾向がメディアで行われていることが、少し気になっている。「迷惑な車」のドラレコ動画をTwtterで探してTVで晒したり、議会を何日も隠し撮りして居眠りする議員を追求したり、歩きタバコする人に突撃したり…。事の大小を問わず、叩きやすいものから順に叩いて気持ちよくなっているだけに感じて、正直不快だ。SNSやネットでの「ブロックなどでの情報フィルタリングで形成される半径3mのホワイト化」とは違う「メディアが主導する理想のホワイト社会への正義の暴走」も並行して進行するように思う。なにより、人を叩くのは、相手がブラックであっても「ホワイト」ではない。次は叩いた自分自身がクレンジングされる番になるだけ、というのが岡田理論。

そして残念ながらそのメディアと一緒に正義を追求する人たちは、まだ2,30年は社会の中心にいるので、今しばらくはもっともっと息苦しい世界になってしまうのではないかな。

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