
何年か前に公開された「ゴッホ~最後の手紙~」という映画。当時は予告編みて「すごい」と感じたんだけど、ふと見たら全然そう感じなくなってしまっていた。これ、まさに画像生成型AIによって作られた動画そっくりだから。
当時みて、「すごい」と感じたのは、おそらく人が1枚1枚(しかも油絵だ)描くしかない(125人が6万5千枚の絵を描いたそうだ)ということが必然的に(人がやる以外の方法がないから)理解できて、その恐ろしい作業を思い描くことができたからだろう。
そして、その「作業」としての仕事が完璧だったのが逆効果に働いてしまって、今見ると、AIが作った普通の動画に見えてしまう悲劇。もはや制作秘話とかメイキング映像を「事前に」見ないと感動しない作品になってしまった感すらある。
すべてのものが手作業で作られていた時代、ゆがみやブレのない正確な作品はすごく価値があったはずだ。陶芸や工業製品もそう。すべてのものが正確に同じであることは、製造者のスキルを表していたからだ。だけど、機械による大量生産ができるようになると、全く同じもの=価値のないものになった。逆にノイズのあるものに価値が出た。絵画でも写真の登場あたりで同じことが起きているだろう。技量を感じるだけのわずかで絶妙な量のノイズや、逆にユニークなノイズは人しか生み出せないので、それが価値になった。
AIによる画像生成が登場すると、そんな「価値のあるノイズ」すら自由に付加した「すべて1点ものの大量生産」が可能になるから、そうなると「なんとなく同じっぽい」ものが無価値になる可能性が高い。今まででいうと、「流行りの画風」「ありがち」みたいな言葉でなされているマイナス評価はそれだと思うが、そのバリエーションとサイクルが今よりずっと小さく、並列的に、早いサイクルで連続的に起きると予測している。現に、画像生成AIの複数ある美少女モデルが登場時に「すごい」といわれ、2か月すると「AIっぽい」といって急速に飽きられている。
ただ、AIのノイズは画風にまですぐに到達するだろうし、なんとなれば個人ごとへの好み(表面的なところではなく本人にすら気づかない深層的な好みの傾向)への適合くらいは10年くらいで達することは十分に考えられる。そうなったとき、われわれは何に「飽きる」のだろう。すべて自分に都合の良い世界への反発。親への反抗期みたいなものなのだろうか。
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